Filed under: Uncategorized — cova @ 00:30
4月21日付で、文化審議会(阿刀田高会長)が小坂憲次文部科学大臣に重要文化財(建造物)12件の指定と、重要伝統的建造物群保存地区 5地区の選定を答申しました。
- 重要文化財(建造物)
- 高照神社(青森県弘前市)
- 那須疏水旧取水施設(栃木県那須塩原市)
- 旧富岡製糸場(群馬県富岡市)
- 旧徳川家松戸戸定邸(千葉県松戸市)
- 旧堀田家住宅(千葉県佐倉市)
- 松城家住宅(静岡県沼津市)
- 旧日向家熱海別邸地下室(静岡県熱海市)
- 旧京都中央電話局西陣分局舎(京都府京都市)
- 布引水源地水道施設(兵庫県神戸市)
- 広島平和記念資料館(広島県広島市)
- 世界平和記念聖堂(広島県広島市)
- 長福寺本堂(大分県日田市)
- 重要伝統的建造物群保存地区
- 六合村赤岩地区(群馬県)
- 塩尻市木曽平沢地区(長野県)
- 宇陀市松山地区(奈良県)
- 鹿島市浜庄津町浜金屋町地区(佐賀県)
- 鹿島市浜中町八本木宿地区(佐賀県)
文部科学省は近く答申に沿って指定、選定を告示する予定です。答申通りに指定されると重要文化財は 2,298件(うち国宝 213件)、保存地区は 78地区になります。
情報源
なお、文化審議会は,平成18年3月17日(金)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て,新たに165件の建造物を登録するよう文部科学大臣に答申を行いました。登録される有形文化財建造物には国際文化会館本館(東京都港区)が含まれています。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:27
奈良文化財研究所の発表(2005.11.13)によると、奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、掘立柱建物5棟や塀の遺構が出土しました。
今回の発掘は国営飛鳥歴史公園の整備に先立ち、約725平方メートルが調査されたものでした。甘樫丘の東側のふもとの起伏の激しい場所を大規模に整地していたことがわかったほか、直径20〜30センチの柱穴が20個以上見つかりました。建物は南北10.5メートル、東西3.6メートルのものなど、いずれも小規模で、全容や用途は不明です。塀は長さ約12メートル分が出土しており、周辺には幅0.8〜1メートルの溝が見つかり焼けた石や土、炭が出てきています。土器も出土しており、7世紀前半のもの以外に7世紀後半のものも見つかりました。
日本書紀によると、蘇我氏親子は644年に甘樫丘に家を並べて建て、蝦夷邸が「上の宮門」、入鹿邸が「谷の宮門」と呼ばれました。邸宅は城柵で囲まれ、また、門のそばに武器庫があり、武装した兵が警護したと記されています。
甘樫丘は、飛鳥板蓋宮や飛鳥寺を見下ろす場所にあります。過去に六回調査されており、1994年に今回の調査区からわずか約三十メートルの谷地で七世紀中ごろの焼けた壁土や建築部材が大量に出土しています。焼け土の層は近くの尾根を取り巻くように広がっており、尾根上にあった蝦夷邸が炎上し、一部が滑り落ちたとみられています。
今回の建物跡は蘇我入鹿邸宅跡の可能性が高いとみられていますが、調査担当の豊島直博研究員は「土器の年代幅を限定しにくく、調査面積も狭かった。」としています。和田萃京都教育大教授は、「見つかった建物跡は7世紀前半から半ばのものとみていいのではないか。しかし、建物規模が小さく、入鹿の「谷の宮門」だったとしても主要部分ではなく付属施設だろう。」とコメントしました。
情報源
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10月28日付で、文化審議会(阿刀田高会長)が文部科学省中山成彬大臣に国宝(建造物)1件、重要文化財(建造物)9件の指定と、重要伝統的建造物群保存地区 4地区の選定を答申しました。
- 国宝
- 重要文化財
- 榛名神社(群馬県榛名町)
- 和井田家住宅(埼玉県八潮市)
- 旧渋沢家飛鳥山邸(東京都北区) — 実業家渋沢栄一の邸宅で、大正期の談話室「晩香廬(ばんこうろ)」と小図書館「青淵文庫」の2棟が指定
- 旧磯野家住宅(東京都文京区)
- 八ツ沢発電所施設(山梨県大月市・上野原市)
- 古谿荘(静岡県富士川町)
- 宇部市渡辺翁記念会館(山口県宇部市)
- 四階楼(山口県上関町)
- 江藤家住宅(熊本県大津町)
- 重要伝統的建造物群保存地区
- 加賀橋立地区(石川県加賀市)
- 加悦地区(京都府加悦町)
- 落合地区(徳島県東祖谷山村)
- 塩田津地区(佐賀県塩田町)
中山文科相は答申通り12月にも指定・選定する予定です。答申通りに指定されると重要文化財は 2,286件(うち国宝 213件)、保存地区は 73地区になります。
情報源
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東京、日比谷の三信ビルの保存を呼びかけるプロジェクトが、有志によって発足しました。サイトを立ち上げて、わかりやすく図解しながら思うところを公にしています。
このプロジェクトは、単に建物の保存を求めるのではなく、古くなった名建築の再生が都心の業務地区でいかに可能なのかを、都市計画的に検討しています。つまり、都市計画の立場から建築物の保存の必要を訴えているのです。これまで、農地や山林を宅地化したり、あるいは、都心での既存建物の建て替えによって全面的な高密度貨を押し進めてきた感のある都市計画が、転換点を迎えているのかも知れません。
三振ビル保存プロジェクトは、もう既に活動を開始しています。都知事、千代田区、事業者の三井不動産株式会社への提案書の提出が発表されています。また現在は、署名活動を展開しているところです。ぜひ、多くの方に賛同していただき、この素晴らしい活動がゆたかな成果を得て欲しいと思います。
リンク: 三信ビル保存プロジェクト http://www.citta-materia.org/sanshin.php
Filed under: Uncategorized — cova @ 00:31
ヴォーリズ記念病院(滋賀県近江八幡市)にある「ツッカーハウス」が解体されるとの報道があります。
報道の文面は、「木造じゃ傷むよね、仕方ないよね」という方向へ誘導しているとも取れます。法隆寺を始めとする古代や中世の建築を語る時には、耐久性を問題視しないのですが、話が近代となると論調が変わるのには疑問を感じます。材料の良し悪しや具体的な納まりといった細部には言及しないので、何を元に判断しているのか分からないのです。もし、情報の発信者が語った理由をそのままメディアに載せているのなら、報道の「公共性」が問題になるでしょう。
それにしても、ヴォーリズは近江八幡にとって、ひとつのシンボルのはずなのですが、次次に取壊しのニュースが出てくるようだと、近江商人の算盤勘定に見合わないのではないかと危惧されます。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:50
建築が専門家のものだという考えがあります。建築家の職能が、専門的な知識と不断の研究を必要としているからで、個人の裁量の範囲であっても、建築行為が地域社会に影響を与える活動であることは否めません。では、専門家でない人が建築活動をすることに問題があるのでしょうか。そんなはずはありません。雨露をしのいで休養をとるだけでなく、ほとんどの人は社会的文化的なことをする場所、空間を持っているはずです。人と会って話をしたり、ブログを書いたり、様様なことが建築の中で行われます。それぞれの活動を建築が支えている、大げさに云えばそういうことです。
一方で、建築そのものも文化を持っています。むしろ、文化に不可欠なものです。しかし、建築の文化が共有されているかと問われると、キチンと調べたわけではありませんが、現状では建築を身近に感じる人は少ないと思われます。そんな状態がいいか悪いかは一先ずおいて、専門家のものだとされているケースが多そうです。
今ここで問うているのは、設計や施工を誰が担うのかということではありません。建築文化が社会的に共有されているかという問題です。家の使い方、公共空間の在り方について、誰もがもっておくべき見識があるはずなのに、その認識がひどく危うくなっているという懸念を指摘しているのです。
もし、建築文化が衰退しているとして、どんな方策があるでしょうか。どういった手段なら、広く受け入れられ、普く社会に建築文化が浸透していくのでしょうか。
考えられるのはテレビです。ドラマに建築家を登場させるのもいいでしょうし、リフォームも関心を集めています。住宅の欠陥のあれこれを知ることも、ひいては建築文化の向上に寄与することでしょう。そういったテレビでの取り上げられ方に共通点を探していると、ドラマチックな物語という形に集約できそうな気がします。建築が大きな位置を占める物語としては、古くはミノタウロス伝説の迷宮やバベルの塔があり、インディー・ジョーンズの古代遺跡も含めていいでしょう。建設の過程を見せる物語としては、新しくは三谷幸喜「みんなのいえ」が挙がるでしょうし、幸田露伴『五重塔』もなかなか面白い話です。ガウディやルートヴィヒ二世の数奇な生涯も多くの人の興味を引くことでしょう。
ともすれば設計図面や模型、模式図ばかりで説明することになりがちですが、殊に普及を考えると、物語はかなり有力なメディアとなる可能性を秘めています。専門家である必要はありません。みんなで建築を語ろうではありませんか。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:02
住宅作家として戦後活躍した清家清氏が今月八日に亡くなりました(参考)。享年八十六歳。東京工業大学出身としては数少ない建築家でしたが、モダニズムを生活に取り込もうと試みたことが評価され、そして、何よりもネスカフェ・ゴールドブレンドのテレビ・コマーシャルでの「違いのわかる男」というコピーが記憶に残っています。
建築家の功績を称え、改めて敬意を表します。
Filed under: Uncategorized — cova @ 00:30
今しがた、ブログ・ツールのアップデートをオートマチックにしたところ、思いもよらず以前のデザインが撥ね付けられてしまいました。今後このままのデザインで続けるかは検討中ですが、少なくとも色は変えるつもりでいます。しばらくは色んなデザインを試すことになると思いますが、ご了承ください。
なお、このブログの補完的ブログ「気侭に緩緩」のアップデートについては、こちらでの試行錯誤の後になります。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:30
白樺派の志賀直哉の短編では「城の崎にて」が知られていて、写生文のお手本と言われます。中でも「自分」が宿の二階から蜂の行き交いを観察して過ごしていると、やがて一匹が死んでいるのを見つけ、しばらく眺める下りが特に賞賛を浴びるところです。志賀自身が後に振り返った一文に、出来に満足していたことが伺えます(岩波文庫版「あとがき」に収録)。
この作品は、ドラマあるいはストーリーテリングを求めてはいません。大怪我の療養中である「自分」が、蜂やいもりやねずみの死に見えて、それぞれの情景に死生観を重ねる文章で、うじうじと陰気臭いだけの私小説のようにも思えます。
しかし、橋本治が『「わからない」という方法』(集英社新書)136-137ページに指摘するとおり、「城の崎にて」で特筆されるのは写生文の見事さ、簡便ながらその場のありようを要領よく描く文章の美しさです。志賀直哉も「・・・事実ありのままの小説で、ねずみの死、蜂の死、いもりの死、皆その時数日間に実際目撃したことだった。そしてそれから受けた感じはすなおにかつ正直に書けたつもりである。・・・」(「あとがき」より)としています。状況を描写すること、説明の要不要を踏まえてきちんと記述することの難しさを感じるものにとっては、まさにお手本となります。蜂の一節を読むと、玄関屋根全体の眺めから、クローズアップされた蜂が羽目に消え、それと代わるように出てきた別の蜂が身繕いを済ませると植え込みへと飛んでいって見えなくなるシーンが、まるで映画のように脳裏に描かれます。短絡や飛躍のない文章がするすると連なり、くどくなったり後戻りしたり迷ったりすることがありません。
こうした記述、描写の技術は、文筆家の必須ですが、建築家にもまたあって然るべきです。自らの設計を的確に捉えなおし、構成を整える時には、文章による記述は有効です。また、施主への説明がすっきり明解にされれば、建物の利用が上手く始められることでしょう。もし言葉による理解が建築の利用形態を導くとしたら、建築家はもっと文章を書いて研究するのがいいと思われます。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:08
digm さんからコメントを頂いて、あれこれと考えたことを、そのまま取留めもなく書き綴ってみました。
人の死を悼むことは大切なことです。丹下氏が亡くなったからといって、今の日本の建築業界が揺れ動くほどではないでしょう。
しかし、その存在があればこそ機能していたものは、急に疎かになるのですから、速やかに対策を打ちたいところです。その時、亡くしたものがどういうものであったのか、それが分かっていればいいのですが、失ってはじめて気づくことも珍しくはありません。後になって分かったことが、なかなか大変なことで、どう対処していいのやら分からず、危急の状況がそのまま捨て置かれれば、やがて大きな代償を支払うことになりかねません。
問題を未然に防ぐには、亡くなった人が担っていた役割を様様な面から洗い出し、部分部分の善し悪しにとらわれずに、一人の人格として総体的に考えることが必要でしょう。それは故人が果たしていた役割を、敬意をもって引き継ぐ作業でもあります。その作業を進めるうちに、庇護されていた傘を失う戸惑い、不安定になった構造に感じる頼りなさ、責務が振り向けられて露呈する自信のなさに、向き合うことにもなるでしょうか。それまでは意識することのなかったその人の一面が、いざとなってみるとどうにも埋め合わせできないとなると大変です。人の死を悼む中で多くのことが模索されることでしょう。
亡くなった人の存在が大きいと、いつまでもその人が何をしたのかという謎に立ち戻ることもあります。例えば、いまだに村野藤吾氏の業績を考えるイヴェントが行われています。村野氏の場合は、何をしたのかよく分からないのが理由として大きく、色色な側面から見直してみても話がまとまらず、うまく腑に落ちずに持て余しているのが現状です。
転居や引退で、人の姿が消える時はまた違っています。まだ何某かの期待を残してしまうといけません。区切りをつけたり、新しい仕組みを造ったりすることが出来ずに、宙ぶらりんになります。例えば、日本建築史の太田博太郎教授が数年前に引退しましたが、教授が果たしていた指導的役割は誰も代わることなく空いたままです。ご健在の時に、批判的立場を表明するものもありましたが、かといって取って代わる存在ということでもなく、学術的に疑問をぶつけただけに終わりました。太田教授が背負っていたものは、まさに日本建築史の学界だったのですから、研究もそのことを考慮において評価すべきです。たとえ仮に時が経って問題が浮き上がったとしても、必ずしも批判すべきとは限りません。指導的立場に立つ人は、あえて危険を冒すものなのですから。
きちんと語ることの出来る理屈を否定するものではありませんが、きちんと語るまでに至っていない事柄に取り組むのも相当に難しく、しかし、それだけに得るところも大きいのです。「情報」に終始してしまうと、言葉にならないものを不当に低く見積もることになります。そのことはずっと語られているのですが、いざ実践した時に感じる曰く云い難いものへの対処は、やはりどうしても言葉にならず、それだけに議論の俎上に載りません。その曰く云い難いものへの対処こそ、学ぶべきだと思われます。