ささいな建築通信

2005/03/29

言い尽くせないことにこだわる

Filed under: Uncategorized — cova @ 01:08

digm さんからコメントを頂いて、あれこれと考えたことを、そのまま取留めもなく書き綴ってみました。

人の死を悼むことは大切なことです。丹下氏が亡くなったからといって、今の日本の建築業界が揺れ動くほどではないでしょう。

しかし、その存在があればこそ機能していたものは、急に疎かになるのですから、速やかに対策を打ちたいところです。その時、亡くしたものがどういうものであったのか、それが分かっていればいいのですが、失ってはじめて気づくことも珍しくはありません。後になって分かったことが、なかなか大変なことで、どう対処していいのやら分からず、危急の状況がそのまま捨て置かれれば、やがて大きな代償を支払うことになりかねません。

問題を未然に防ぐには、亡くなった人が担っていた役割を様様な面から洗い出し、部分部分の善し悪しにとらわれずに、一人の人格として総体的に考えることが必要でしょう。それは故人が果たしていた役割を、敬意をもって引き継ぐ作業でもあります。その作業を進めるうちに、庇護されていた傘を失う戸惑い、不安定になった構造に感じる頼りなさ、責務が振り向けられて露呈する自信のなさに、向き合うことにもなるでしょうか。それまでは意識することのなかったその人の一面が、いざとなってみるとどうにも埋め合わせできないとなると大変です。人の死を悼む中で多くのことが模索されることでしょう。

亡くなった人の存在が大きいと、いつまでもその人が何をしたのかという謎に立ち戻ることもあります。例えば、いまだに村野藤吾氏の業績を考えるイヴェントが行われています。村野氏の場合は、何をしたのかよく分からないのが理由として大きく、色色な側面から見直してみても話がまとまらず、うまく腑に落ちずに持て余しているのが現状です。

転居や引退で、人の姿が消える時はまた違っています。まだ何某かの期待を残してしまうといけません。区切りをつけたり、新しい仕組みを造ったりすることが出来ずに、宙ぶらりんになります。例えば、日本建築史の太田博太郎教授が数年前に引退しましたが、教授が果たしていた指導的役割は誰も代わることなく空いたままです。ご健在の時に、批判的立場を表明するものもありましたが、かといって取って代わる存在ということでもなく、学術的に疑問をぶつけただけに終わりました。太田教授が背負っていたものは、まさに日本建築史の学界だったのですから、研究もそのことを考慮において評価すべきです。たとえ仮に時が経って問題が浮き上がったとしても、必ずしも批判すべきとは限りません。指導的立場に立つ人は、あえて危険を冒すものなのですから。

きちんと語ることの出来る理屈を否定するものではありませんが、きちんと語るまでに至っていない事柄に取り組むのも相当に難しく、しかし、それだけに得るところも大きいのです。「情報」に終始してしまうと、言葉にならないものを不当に低く見積もることになります。そのことはずっと語られているのですが、いざ実践した時に感じる曰く云い難いものへの対処は、やはりどうしても言葉にならず、それだけに議論の俎上に載りません。その曰く云い難いものへの対処こそ、学ぶべきだと思われます。

2005/03/25

地震で宇佐神宮本殿に亀裂が生ずる

Filed under: Uncategorized — cova @ 13:16

今月20日に福岡県西方沖地震がありましたが、報道によると八幡造で知られる大分県宇佐市南宇佐の宇佐神宮本殿(国宝)の壁に亀裂が見つかりました。宇佐市教育委員会は「上宮本殿の三之御殿の北と西側のしっくいの壁に12カ所の亀裂(40~50センチ)があり、浮いた状態。三之御殿の西側に建つ北辰神社(県指定有形文化財)の東、西、北の壁は無数のひび割れがあった。」としています。

現在の本殿は文久元年(1861)の造営で、幕末の尊皇攘夷思想との関わりで旧形式を踏襲したと見られています(参照:太田博太郎監『【カラー版】日本建築様式史,』美術出版社 1999, p. 108)。近代の宗教の在り方、つまり、政治による宗教の取り込みを考える上で興味深い対象です。しかし、本殿は回廊に囲まれていて、中へおいそれと入ることが出来ないのが残念です。

ちなみに、宇佐神宮と国東半島を世界遺産に登録する運動があるようです。

2005/03/23

建築家の存在あるいはその証明に思う

Filed under: Uncategorized — cova @ 11:23

昨日22日、巨星が墜ちた。日本の現代建築を担った丹下健三が死去した。戦中戦後世代の期待と尊敬を受け、自らの存在をずっと維持してきた人物だった。業績もさることながら、行動で人を率先して、メッセージを発しつづけたことが、丹下のレゾンデートルだっただろう。設計に対する姿勢や夜の街での身のこなしが、今尚、丹下伝説として健在する。小説にあるような下世話な建築家ではなく、見晴らしの利く己の立ち位置から足元を俯瞰し、また遠く将来を見据えた上で、時の権力者やあるいは大衆に臆せず相対して自らの職能を全うする、そんなイメージが出来上がっている。

「大東亜建設記念造営計画」の設計競技案に認められるあからさまな帝国主義への翼賛にも圧倒されるが、「広島平和記念資料館」に見られる白々しくも実に鮮やかな転進には大いに驚かされる。しかし、そんな政治的な揺れ動きの中で、デザイナーとしての腕前が丹下を支えたことが、また価値を高めたのだ。資料館は、日本建築の在り方を避けて語ることができない。西欧主導のモダニズムを受ける一方で、その西欧モダニズム建築に通底する日本建築の特質を、これというかたちで仕立ててしまった。

裏へ回っても、金銭の魅力、働きを知ってか、決して小汚い付き合いとは縁を切り、なるほどこれは凄い人だと唸らせた。然る建設会社の営業担当重役が、丹下を接待した時の話がある。やはり建設業者には下心があった。その晩、露骨なことは口にしなかったが、一通り先生を連れ回し、十分にもてなしたと言う。相手が相手だけに、いつもとは違った緊張感をずっとまとっていたが、ようやく建築家を車に乗せ、肩の荷を下ろす思いで帰路についた。玄関をくぐり、ほっと安堵の息をついただろうか。しかしその時、その重役は自分のポケットに分厚い封筒が入っていることに気づく。中を確かめると、その晩使った金額に相当する札束が包まれていた。この話の真偽は確かめるべくも無いが、丹下健三がどんな建築家と見られていたのかを示すエピソードである。

海外では、都市規模の開発を手がけ、現地に事務所を置いて、丹下が活動をしっかり継続してきたことは、武者修行の駆け出し建築家が頼りにするところだし、改めてその存在の大きさを意識するところとなっている。

様様な日本の建築関係の集まりの中で、それぞれに指導的な役割を担う層があるとしたら、丹下はそれらの上に立っていた。注目を感じながら、存在を感じさせながら。社会という得体の知れない幻影に目見え、間尺の違うものへの抗いを後進に身をもって示した。

今は丹下に代わる存在が見当たらない。磯崎にしろ安藤にしろ、向き合うのは内的なもの身の内に沈むもので、他の者がそれを見るにはいちいち彼らの位置に立たなければ仕方が無い。それではとても面倒だし、社会という共通基盤さえ前提にできない。とっくに巨匠の時代は終わっているのかも知れないが、頼りがいの無いおじさん建築家は親しんだシンボルを失ったことに感慨するだろう。そんなおじさんのつらつらと口をついて出てくる言葉が、存外小賢しいからくりでしかなく、今時の突拍子もない若者のものと大して違わないことに、果たして気づくだろうか。

人の存在は取替えできない。しかし、必要なものは、間に合いさえすれば、はめ込むことになる。強さや色形には贅沢がいえない。

巨星墜つ。そして、その死を悼む。

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