Filed under: Uncategorized — cova @ 01:50
建築が専門家のものだという考えがあります。建築家の職能が、専門的な知識と不断の研究を必要としているからで、個人の裁量の範囲であっても、建築行為が地域社会に影響を与える活動であることは否めません。では、専門家でない人が建築活動をすることに問題があるのでしょうか。そんなはずはありません。雨露をしのいで休養をとるだけでなく、ほとんどの人は社会的文化的なことをする場所、空間を持っているはずです。人と会って話をしたり、ブログを書いたり、様様なことが建築の中で行われます。それぞれの活動を建築が支えている、大げさに云えばそういうことです。
一方で、建築そのものも文化を持っています。むしろ、文化に不可欠なものです。しかし、建築の文化が共有されているかと問われると、キチンと調べたわけではありませんが、現状では建築を身近に感じる人は少ないと思われます。そんな状態がいいか悪いかは一先ずおいて、専門家のものだとされているケースが多そうです。
今ここで問うているのは、設計や施工を誰が担うのかということではありません。建築文化が社会的に共有されているかという問題です。家の使い方、公共空間の在り方について、誰もがもっておくべき見識があるはずなのに、その認識がひどく危うくなっているという懸念を指摘しているのです。
もし、建築文化が衰退しているとして、どんな方策があるでしょうか。どういった手段なら、広く受け入れられ、普く社会に建築文化が浸透していくのでしょうか。
考えられるのはテレビです。ドラマに建築家を登場させるのもいいでしょうし、リフォームも関心を集めています。住宅の欠陥のあれこれを知ることも、ひいては建築文化の向上に寄与することでしょう。そういったテレビでの取り上げられ方に共通点を探していると、ドラマチックな物語という形に集約できそうな気がします。建築が大きな位置を占める物語としては、古くはミノタウロス伝説の迷宮やバベルの塔があり、インディー・ジョーンズの古代遺跡も含めていいでしょう。建設の過程を見せる物語としては、新しくは三谷幸喜「みんなのいえ」が挙がるでしょうし、幸田露伴『五重塔』もなかなか面白い話です。ガウディやルートヴィヒ二世の数奇な生涯も多くの人の興味を引くことでしょう。
ともすれば設計図面や模型、模式図ばかりで説明することになりがちですが、殊に普及を考えると、物語はかなり有力なメディアとなる可能性を秘めています。専門家である必要はありません。みんなで建築を語ろうではありませんか。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:02
住宅作家として戦後活躍した清家清氏が今月八日に亡くなりました(参考)。享年八十六歳。東京工業大学出身としては数少ない建築家でしたが、モダニズムを生活に取り込もうと試みたことが評価され、そして、何よりもネスカフェ・ゴールドブレンドのテレビ・コマーシャルでの「違いのわかる男」というコピーが記憶に残っています。
建築家の功績を称え、改めて敬意を表します。
Filed under: Uncategorized — cova @ 00:30
今しがた、ブログ・ツールのアップデートをオートマチックにしたところ、思いもよらず以前のデザインが撥ね付けられてしまいました。今後このままのデザインで続けるかは検討中ですが、少なくとも色は変えるつもりでいます。しばらくは色んなデザインを試すことになると思いますが、ご了承ください。
なお、このブログの補完的ブログ「気侭に緩緩」のアップデートについては、こちらでの試行錯誤の後になります。
Filed under: Uncategorized — cova @ 01:30
白樺派の志賀直哉の短編では「城の崎にて」が知られていて、写生文のお手本と言われます。中でも「自分」が宿の二階から蜂の行き交いを観察して過ごしていると、やがて一匹が死んでいるのを見つけ、しばらく眺める下りが特に賞賛を浴びるところです。志賀自身が後に振り返った一文に、出来に満足していたことが伺えます(岩波文庫版「あとがき」に収録)。
この作品は、ドラマあるいはストーリーテリングを求めてはいません。大怪我の療養中である「自分」が、蜂やいもりやねずみの死に見えて、それぞれの情景に死生観を重ねる文章で、うじうじと陰気臭いだけの私小説のようにも思えます。
しかし、橋本治が『「わからない」という方法』(集英社新書)136-137ページに指摘するとおり、「城の崎にて」で特筆されるのは写生文の見事さ、簡便ながらその場のありようを要領よく描く文章の美しさです。志賀直哉も「・・・事実ありのままの小説で、ねずみの死、蜂の死、いもりの死、皆その時数日間に実際目撃したことだった。そしてそれから受けた感じはすなおにかつ正直に書けたつもりである。・・・」(「あとがき」より)としています。状況を描写すること、説明の要不要を踏まえてきちんと記述することの難しさを感じるものにとっては、まさにお手本となります。蜂の一節を読むと、玄関屋根全体の眺めから、クローズアップされた蜂が羽目に消え、それと代わるように出てきた別の蜂が身繕いを済ませると植え込みへと飛んでいって見えなくなるシーンが、まるで映画のように脳裏に描かれます。短絡や飛躍のない文章がするすると連なり、くどくなったり後戻りしたり迷ったりすることがありません。
こうした記述、描写の技術は、文筆家の必須ですが、建築家にもまたあって然るべきです。自らの設計を的確に捉えなおし、構成を整える時には、文章による記述は有効です。また、施主への説明がすっきり明解にされれば、建物の利用が上手く始められることでしょう。もし言葉による理解が建築の利用形態を導くとしたら、建築家はもっと文章を書いて研究するのがいいと思われます。